愛の綱引きをしましょう

とりあえず記録

”担当”とは枠組みの1つである

 

Sexy ZoneのFCに入ってから早いものでもう9ヶ月目に突入しようとしているというのに、まだ菊池さんのことを「自担」と呼ぶことができない。

 

文字で対象のことを表すとき「担当」とか「推し」ほど便利な言葉ってないと思う。bioに記載すれば一発で誰が好きか判断できるし、普段のツイートでは検索避けとしても使える。

それなのに菊池さんに対して使えない。使わないと決めているわけではないのに文字を打ち込めないのだ。その謎を探るべくいくつかの仮説を立てた。

 

仮説① 担当は唯一であると考えているため

長らく自担=松本潤の構図が出来上がっていた。

もともと二次元ジャンルに生息していた小娘がインターネットの世界を知り「特別に贔屓する存在」のことを「推し」と呼ぶのだと学び、ほどなくしてジャニーズの場合は推しの代わりに「担当」と呼ぶ文化があることを雰囲気で察知した。(今はジャニーズの場合も担当と推しは使い分けられていると感じている)

少し本題から逸れるが、私の「担当」の理解を示すためになぜ自担を松本潤と定めたかについて軽く触れてこうと思う。物心ついたときから嵐がいたため、嵐とは『ドラえもん』や『名探偵コナン』のように広く根付いてみんなが好きなものであり、TVをつけて出ていたら見るし、気が向いたらウォークマンを操作して曲を聞くし、あと単純に松潤の顔が好きだったのでたまに画像検索もしていたけれど、嵐を特別なものだと考えていなかった。

しかし受験期を経てそれは一変する。もともとの好感度が高かったので沼落ちというには程遠いが、強いて嵐を明確に意識したタイミングを挙げるとすれば、塾からの帰り道、電車の中で『きっと大丈夫』を聴いた時だろう。

気付けばまだ確かにほら 空にTwilight
光がなくともない
ならまだまだ You shouldn't cry cry cry

 受験期に何度も何度も口ずさむことになり、いろいろあって結果的に嵐は人生の特別になった。ベストアルバムと『Time』しか入っていなかったウォークマンで特別になったのだ。(だからジャニーズ全グループサブスク解禁してくれ)

そんなこんなでジャニオタの友達に「どこが好きか1番説明できるのは翔くんなんだけど、自然と目で追ってしまうのは松潤なんだよね」と伝えたところ「へー担当松潤なんだ」と言われた。「顔が好きなんだね」とか言われると思っていたのに担当だよと言われてびっくりしたが後に、なるほどやはりあれは自担への反応だったと納得することになる。

いろんな表情を見せてほしい、一瞬でも目に留まると元気が出る、隅々までチェックしてしまう、そして、どこにいても1番に見つけられる、、、まるで恋の初期症状のようなこれらは、紛れもなく「担当」を自覚するための材料になる。言い換えれば、このようになる人が自担だと理解した。

かなり長くなってしまった。とにかく、「担当」なんて使うのはジャニーズだけであり、私は基本嵐だけを見ていて「自担」と呼ぶべき相手は一人だけだったので、潤くんに対して抱いていた気持ちとずれると、担当ではないと思ってしまうのかもしれない。でも、前述した担当を自覚するための材料は菊池さんにも当てはまってるんだから潔く認めなよという自分もいる。余談だが「あなたに笑顔でいてほしい」をSexy Zoneで一番感じるのはケンティーで、そのせいで判断が難しくなっている部分は正直ある。なんでこんなにケンティーって強いんだろうね。

あとはなにより、潤くんが過去の人になったわけではない、端的に言うと担降りしたわけではないしするつもりもないので、今まで唯一だったものが揺らぐのが怖いのもあるのだと思う。世の掛け持ちしてる人たちはどう対処したのだろうか...?

  

仮説②  まだその段階ではないだけ

担当って言葉が強いと思う。責任とか役割がのしかかる気がして軽々しく口に出せない。ジャニーズにおいては「推し」に比べて人生に与える影響度合が一気に格段に跳ね上がるイメージもある。

まだ、好きなところを一つずつ掘り起こしている段階だから見極めることができないのかもしれない。そもそもそれを考えるためのブログを書いていたのに、派生したこちらが2000字を超えているのはなぜ.....?

 

仮説③ 既存の枠組みに当てはめるには異色すぎる

これが1番正解な気がする。ブログ名の通り、私はどうやら基本姿勢として菊池さんと(勝負にならない)綱引きがしたいようだとわかってきた。

多数の推しを持つ私だが、大抵は「この人のように生きたい」「ゆりかごから墓場までを見届けたい」「成長を楽しみたい」「とにかくお金を払いたい」「幸せになれ」「行く末を祈らせてくれ」のどれかにあてはまる。一方的に拝むだけで充分だったのである。

でも菊池風磨という男に対しては、どうにかこうにか勝負がしたくなる傾向があるように感じる。具体的な例を出すとコメントだ。「うわ!それ私も思いつきたかった!!」が多い。恐らくニノさんで場馴れしたのもあって、にのっぽいセンスだと思うときもあるのだけど、それが余計に敗北を感じさせる。にのがひゃっぺん逆立ちしても出てこない言葉を操る人だとしたら、菊池さんは知識に裏付けられたセンスを磨いていく人だと思う。

cf.ドッキリGPのラテ欄を考える企画で、自分は文章力あると思っていたから前回あまり採用されなかったの悔しくて勉強した菊池さん

 ラップのリリックで惹かれたのだから当然かもしれないが、菊池さんのバラエティにおける思いつきそうで出てこない一言をはじめとする言語センスに嫉妬しているところが大いにある。

あと、守備範囲の広さも勝負ポイントになった。

『Blessed』の

世界は僕らを待ってはいないだろう
それならもう少しだけ眠らずにいようか

という歌詞がとっっっっっても好きで、作詞作曲がLUCKY TAPESだと知り「さすがだ!こんな人からも提供あるのすごい!!」と感動していたのだが話はここで終わらない。

 菊池風磨によるプレゼン、、、、、また私は彼の掌の上だったのか、、、、、と愕然とした。

く゛や゛し゛い゛ぃ゛

ここから導き出すに私の”勝負したい”には、おすすめを紹介されたときに「あーそれいいよね」と言いたいとか、わかる人にはわかるボケで通じ合いたいとか、同じ突っ込みを考ていたいとか、そういう面があるようだ。言葉を選ばずに言うとマウントとりたいもある。櫻井翔中島健人についてマウントとられまくってる反動かしら。

そして「これ好きだろ?」みたいに差し出されるもの(雑誌のコメントやライブでの仕草など)にノックアウトされて膝から崩れ落ちるのではなく、「悪くないね」とハイヒールでよろけずに受け止めたい。そんな綱引きをする相手を推しと呼ぶのも担当と呼ぶのもしっくり来ないのである。

 

さて、自分が未だ菊池さんのことを「自担」と呼べない理由について考察し、少しすっきりすることができた。いずれの場合にせよ、菊池風磨のことが好きであるというのは間違いなさそうでなんだか安心した。

これから自担と呼べるようになるかもしれないし、自分だけの呼び方を作るかもしれない。一生同じことで悩み続けるかも。

でも、菊池さんは呼び方にこだわらずファンであるという事実を喜んでくれる懐の深い人だと信じているので、感情かき乱されまくっても出会えて良かったなと思う。